エルサレム
エルサレムはキリスト教・イスラム教・ユダヤ教のにとっての聖地。
城壁に囲まれた旧市街は、迷路のように入り組んで、スークをそぞろ歩くだけでも「パレスチナ」の雰囲気を楽しめます。

エルサレムは、東エルサレムと西エルサレム(新市街)とで、かなり雰囲気が違います。
東エルサレムは、アッバス大統領が 2011 年、国連にパレスチナを国家として加盟するように申請した際、パレスチナの首都として宣言した都市で、パレスチナ人も多くアラブの歴史を強く感じられる地区です。
西エルサレムは多くのユダヤ人が入植している新市街で、町も新しく近代的です。

現在パレスチナ国内に住むパレスチナ人の中にも、エルサレム生まれなのに分離壁が出来てしまったために帰れなくなってしまった、という人も多くいます。
また、東エルサレムに住み続けているパレスチナ人でも、1967 年の第三次中東戦争後にイスラエルに併合されてしまったために、税制面や就職面で冷遇され続けているという現実もあります。
パレスチナがこれからどうなっていくのか、その重要なポイントにもなっているエルサレムを見ることは、平和とは何かを考えさせてくれるきっかけにもなるかもしれません。
エルサレムの歴史
紀元前 4500 ~ 2000 年
紀元前 4500 ~ 3500 年ごろに人が定住。紀元前 2000 年頃には既に城壁に囲まれた町になる。
エジプト中王国時代の遺跡に、紀元前 2000 年頃の記録として「Rusalimum」という町名も残っているという。
「Rusalimum」の名は、アラビア語・ヘブライ語の「サラーム(平和)」から来ているという説もあるらしい。
紀元前 17 世紀頃
カナン人たちが、エルサレムの東側に壁を作る。当初は水路を守るためのものであった。
紀元前 1000 ~ 930 年頃
統一イスラエル王国のダビデ王が、エルサレムを都として自らの居住地として定める。
ダビデ王の死後、紀元前 970 年頃に息子ソロモン王が即位。エルサレムは更に発展し、エルサレム神殿も建設。
ソロモン王の死後、統一イスラエル王国は南北に分裂。エルサレムは南の「ユダ王国」の首都となる。
紀元前 925 年
エジプトのファラオ、シェションク 1 世の侵攻を受けると、次第に情勢が不安定に。様々な戦争に巻き込まれるようになる。
紀元前 587 年
新バビロニア王国のネブカドネザル 2 世がエルサレムを包囲。翌年、エルサレムは破壊、陥落させられる。
それまで住んでいた数千人のユダヤ人貴族は、捕虜としてバビロンに連行される(バビロン捕囚)。

紀元前 539 年
アケメネス朝ペルシアのキュロス 2 世が、バビロニア王国を滅ぼす。
キュロス 2 世はユダヤ人を開放。城壁やエルサレム神殿も再建設される。
紀元前 4 世紀以降
ヘレニズム時代は、エルサレムは数千人の貴族だけが住む静かな都市として存続。
紀元前 124 年
ハスモン朝の祭司王、ヨハネ・ヒルカノスがエルサレムを首都と定める。
紀元前 63 年
ローマ帝国のグナエウス・ポンペイウスに征服される。
紀元前 37 年
ローマの支配下の元にヘロデ王が王国を創始。
ヘロデ王はエルサレム神殿を大きく改築し(現在の嘆きの壁はその外壁)、エルサレムが近代化していく。

しかしヘロデ王が死ぬと、首都はカエサリアに移され、エルサレムの政治的機能は失われる。
66 ~ 73 年
ローマ帝国に抵抗したユダヤ人とローマ帝国の間にユダヤ戦争が起きる。
ローマ軍によってユダヤ人のアイデンティティーでもあったエルサレム神殿は破壊され、エルサレムは陥落。
2 世紀頃
ローマ帝国のハドリアヌス帝の時代に、最後のユダヤ人の反乱が鎮圧される。
ユダヤ人はエルサレムから追放され、跡地にはローマ帝国の植民地アエリア・キャピトリナが作られる。
325 年
ローマ帝国の終わりの時代、325 年にキリスト教がローマ帝国の公認宗教として定められる。
エルサレムはキリスト教の聖地となり、イエスのエピソードと結び付けられるようになる。
638 年~(イスラームの時代)
イスラームの創始者モハマッドの死の 5 年後、イスラムの正当カリフ第二代ウマールがエルサレムを征服。
その後、正当カリフが破れ世襲カリフであるウマイヤ朝時代になると、691 年に岩のドームが建設される。

この頃、エルサレムのキリスト教徒はウマイヤの管理下に置かれる。
一方ユダヤ人は、ペルシア人虐殺に関わったことや教会の破壊に加担していたことからキリスト教司祭達の反対もあり、エルサレムから姿を消す。
1099 年
イスラムからエルサレムを奪回しようとローマから送られた十字軍によって、キリスト教の王国「エルサレム王国」が建国される。
エルサレムに住んでいたムスリムやユダヤ人は虐殺された。
1187 年
イスラム系王朝のサラディン王によってイスラエルは奪い返され、再びイスラムの支配下に置かれる。
続くマムルーク朝の間も、エルサレムはモンゴルや十字軍の攻撃にも関わらず破壊を免れる。
16 世紀
オスマン帝国が台頭し始め、シリアなどでマムルークが次々に破られると、エルサレムはオスマン帝国のセリム 1 世に譲渡される。
オスマンの下、エルサレムに新しい城壁が建設される。それから数世紀の間、エルサレムは静かで落ち着いた時代を過ごす。
18 世紀半ば~
オスマン帝国の大宰相イブラヒム・パシャによって大規模な統治改革が行われ、エルサレムは首都イスタンブールに次いで 2 番目の都市としての地位を獲得。
19 世紀半ば~
ヨーロッパ勢力はパレスチナの地の政治力を競い始め、イギリス・プロイセン(現在のドイツ)・フランスが次々に領事館を設立し、エルサレムは次第に政治の中心地になっていく。
ヤッファからエルサレム間の道路が開通した他、シリアやイラク間の道路も建設され、交通の要としても発展。
また、この頃から 20 世紀前半にかけて、各地に離散していたユダヤ人が急激にパレスチナの地に移住が始まる。
1914 年
第一次世界大戦が勃発。中東に影響力を持ちたかったイギリスが、オスマン支配化のアラブ人にアラブ国家の設立を約束し、アラブ人に支持を得てオスマン帝国を撃破。
しかしこの一方、イギリスは「中東の地を分割しあう」という密約を、同盟国であるフランス・ロシアと結び、またその一方でシオニズム(ユダヤ人のパレスチナ帰還)を指示する書簡を、ユダヤ系銀行から軍事資金を取り付けるために発行していた(イギリスの「三枚舌外交」)。
1945 年~
第二次世界大戦の終結後、世界のユダヤ人たちはさらにパレスチナ移住の勢いを強める。
統治が手に負えなくなったイギリスは国連にその決議を委ね、1947 年、国連のパレスチナ分割会議で、アラブ人・ユダヤ人の国家を認める決議案が出され、エルサレムは国連管理となる。
1948 年のイスラエル建国直後に反発する周辺アラブ諸国との間に第一次中東戦争が勃発し、西エルサレムはイスラエル・東エルサレムはヨルダンの管理下に置かれる。

その後もイスラエルと周辺アラブ諸国との衝突は続き、1967 年の第三次中東戦争後、東エルサレムはついにイスラエルに併合される。
イスラエルは東エルサレムの所有を既成事実化するために、現在に至るまでユダヤ人の入植を精力的に続けている。